昭和42年05月13日 朝の御理解



 合楽に御神縁を頂いておられる皆様の全部が、そうでなからなければならない、又そうであると思うんですけれど十三日という日を、何時も同じですけど一番特に大事にすると、是は椛目の時代から続いておる訳で御座いますが。十三日会は椛目の時代から、合楽の今日に至るまで続けられ、年令の差を云わず年寄も青年も皆その心になって、愈々親神様の心に添い奉ろうと、少しでも親神様に喜んで頂こうという気が、神ながらにああして開けるようになるその事を今日まで実行し続けておる訳で御座います。
 所謂神の御悲願が達成される事の為の、十三日会でありたい、又それを、神様のお心に添い奉ろうとする願いの元に、そうさせて頂く事が、しかもそれがどんなに有難い事かと云う事を体験して行く、信心生活を手本のような一日でありたい。しかもそういう一日であるという事が、いかに有難い事か、段々解って来る様になると、十三日だけではなくて十四日も、十五日も、それが十三日会の心をもって、お互いおかげを頂かせて貰う様になったら、いよいよ御徳も受けられるであろうと思いますね。
 皆さんどうでしょうか、十三日の、本当にこういう気持ちにならせて頂けば、本当に有難いという体験が、少しづつお互い出来ているでしょうか、ただ十三日には、志のある人達が集まって、そして信心の共励をすると言うだけに、止まっておったんでは大した事はないと思うんですね。私は天地の親神様が、どう言う風にある事を、一番求めておられるであろうかと思うてみるとですね、結局は不平不足を云わんで済む、一日でありたいと云う事でしょうね。
 もっと突き進んで不平不足を思わんで済む、様な私になりたいという願い、不平不足は云うまい、云わんどころか不平不足を思わんで済む、様な自分になりたいという事、神様が一番喜んで下さるのは、そういう私共になる事じゃないでしょうか。ところがあまりにも不平不足を云う事が多いのである、いや、云わんで金光様、金光様で辛抱しているだけであって、心には思うておると云う事である。
 私はもうぎりぎり、そこんとこに取り組みたいと自分で思っておる。不平不足を云わんじゃない、本当に思わんですむために、思わんで済むと云う事は、私が相済まん私であるとか、有り難い私であるとかいう事に、結局は焦点を置かなければならない。特に私は自分の様な者が、不平を云うたり思うたりする、資格は無いところまで自分というものを極めて行きたいと、本当申しますと、いろいろ此の様な私にですら神様がおかげ下さっておる。有り難いと云う気持。
 有難いと云う心を養っていこうと、その有難いと云う心の中には、不平不足も云わんで済めば、不平不足を思わんでも済むおかげを頂く、所がです。そういう覚悟の元に一日、不平不足を云わんで済む、思わんで済む私に、なりたいと一生懸命願わして貰う、和らぎ賀びの心を頂きたいと、精進努力をしておるのです。しかし、実際は大変な御粗末、御無礼ばかりであって、そこで十三日会というのはですね、お礼のしるし、お詫びのしるしに御用もさせて頂こう、お供えもさせて頂こうと云う事になったら、その御用が、お供えが大変美しい清らかなものに、なって来る様に思うんです。
 是は椛目の時代、椛目の建設の為の御用といった意味合いのですね、十三日会には取分け皆さんが真心込めたお供えをなさったり、御用をなさったりする訳ですね。それを十三日会費と言う風に云うておられる人達があります、十三日会に出れば、十三日会費を収めなければならない様な思い方になって来たら、是は大変な間違いだと思いますね。十三日会費じゃないのです、只今私が申します様に、本当に相済まん私であると言う所からです、相済まん、お詫びのしるしに御用が出来る。
 そういう相済まん私であるにも係らず、神様が此の様なおかげを下さるという。御礼の喜びのしるしでなければなりません。皆さん十三日会に出席なされないに致しましても、十三日という日は、私共の願いが成就するのではなくて、神様の願いが成就する日としてです、私共はもっともっと心を寄せなければならんのです、又、その十三日会の心を、信心の上に体得して行く修業をしなければならないと思いますね。
   どうぞ。